平田オリザさん監督「Sayonara(さよなら)」「I, Work(働く私)」を観て考えた、日本人の感性とかメソッドアクティングとか

前回に引き続き、ワークショップの後は、劇団「青年団」の舞台鑑賞。ジャパンソサエティづくし、平田オリザさんづくしの一日である。

この舞台、新しい。だってだって、本物のロボットが登場するなんて、聞いたことあります?

「sayonara」には 人型アンドロイド。一目見たら人間の俳優がロボットになりきってるのかと思ってしまうくらい精巧だ。本当にロボットなのかプレイビルの出演者一覧を確認しちゃったもんね。アジア人のお顔立ちだった。

「I, work」のほうは、一目見て機械だとわかるいわゆる“ロボット”が2体(2台?ふたり?)だ。

実は「さよなら」は、去年のThe Public Theaterが主催した311のリーディングの日本語バージョンに出演させていただいたご縁で馴染みがあったので、楽しみにしていた。

平田オリザさんご本人による舞台をみて、納得。これは俳優がロボットになりきるのではなく、本物のロボットを使わないとだめだ!

表情がほとんどなく、台詞も棒読みの本物のロボットが、逆にオーディエンスの想像力をかきたて、ストーリーを効果的に伝えているところが面白いのである。

「I, work」なんて特に、実際は無表情・無機質なロボットが、些細な動きや「間」を有効に使うことによって、豊かな表情と感情があるように見えてくるから不思議だった。

この舞台が日本で生まれたことを考えると、歌舞伎、能、文楽などの伝統芸能など「型」のある娯楽の中で育った日本人は、自分の想像力をコラボさせてストーリーを受け取る感性が鍛えられているのかなぁと思った。日本のアニメにも、あんなキャラ声の話し方の人は実際にはいない&表情も固いという「型」がある。

その日本独特の感性は、世界で受け入れられているようだ。日本人以外の観客にも好評で、満席の会場は拍手喝采だった。

また、クリスチャンベースの考え方とは対照的に、唯一神ではなく「八百万の神」を信仰し、モノに命が宿るという考え方をしてきた日本文化について、質疑応答のところでオリザさんご本人がおっしゃっていたことも興味深かった。ここでは書ききれなくてすみまへん。0104_j_title

さて、「よい脚本」があって、「間」「動き」「台詞のスピード」を計算すれば、頭脳や心のないロボットの演技でもオーディエンスを惹き付けられると証明したオリザさんの演技論は、パチーノさんやデニーロさんの演劇学校”アクターズスタジオ”で有名な、いわゆる“メソッドアクティング”とは真逆のアプローチだと言える。

メソッドアクティングと言えども細かく言うとたくさんの演技論に別れるのだが、基本的にはアクターの内面を重視する方法だ。

わたしも、本場ニューヨークにいるんだから!と鼻息荒らげてメソッドアクティングのクラスを半年ほどとったことがある。「俳優は、自身の人生を役に投影し、舞台上の一瞬一瞬を実際に“経験”しないといかん!」と口をすっぱくして教えてくれた。

そのクラスはよかったけれど、メソッドに傾倒しすぎた場合の限界を感じたのも事実だ。ひと言で言うと、俳優の自己満足で終わってしまうのだ。たまに、メソッド信者のアクターと演技をすると、自分の感情を爆発させるのに必死で、または、いかに(酔った/病気の/眠たい/熱い・寒い…等)感覚を作り上げるかに気を取られて、心の扉がまったくこっちに開いていなかったりするのがそれだ。なんだか、わたしを通り越して、遠いところを見つめているのである。注)相手のこういうことが気になっている時点で集中力が足りませぬ。

オリザさんの「型」重視のテクニカルな演技法も、メソッドアクティングの俳優の内面重視の演技法も、ゴールはストーリーを観客に伝えることである。ストーリーが伝わりさえすれば、そこにたどり着くための方法は何でもいいのだ。

俳優の仕事のゴールも、“自分たちが感じ/考える”ことではなく、“観客に感じ/考えさせる”ことだ、ということをあらためて感じた刺激的な舞台であった。

平田オリザさんのこちらの舞台は、北米ツアー中。ニューヨーク以外でも公演は行われるようなので、興味のある方はぜひ日本国際交流基金のウェブサイトをチェックしていただきたい。

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