コネチカットでの銃乱射事件とアメリカの銃規制

また起こってしまった。先週の金曜日である。

発生からしばらく経って、事件の概要が明らかになってきた。(それにしても今回のメディアははやとちりでの誤報が過ぎた)

報道によると、母親を殺し、彼女が関係者だった学校に侵入した犯人の男は20歳。20人の子供たちを含め、27人を銃殺し、本人も自殺。

治安のいいと言われていたコネチカットで起こった、新たな”Mass Killing”(大量殺人事件)である。

9,11、3,11などの悲惨な事態もそうだったが、「銃乱射事件」ときくと、頭ではわかっていても、どこか遠い世界のことのようでにわかに信じられない。しかし、子供を守った先生、犯人に立ち向かって撃たれた学長、子供たちの様子など、それぞれ関係者個々人のエピソードを知るにつれて、お腹が痛くなりそうな不快感とともに「大量殺人」が自分の中で現実味を帯びてくる。

今回のことでますます浮き彫りになったのが、アメリカの銃規制の問題。保守派と革新派とで、意見がまっぷたつに割れている。

ここ数年、オバマ大統領が任期中の銃乱射事件は1度や2度ではない。

これまでの彼の対応はどうも煮え切らないところがあるとわたしの周りでは批判されていた。とくに、映画館で銃を乱射した24歳の男を「Evil」と言って切り捨てたときは非難ゴーゴーだった。

ただ当時は、彼も選挙のキャンペーン中で、保守派を意識して発言、行動していたのだろうと思われる。

一方、今回の事件の直後に出されたオバマ大統領の涙ながらのスピーチは人間らしくて素晴らしかった。3日前の犠牲者の男の子のお葬式での言葉も心を打った。そして実際に「2度と起こらないように」と、銃規制を匂わせる発言までしていた。

なんとかしてくれることを切実に願う。

わたしは、銃は規制してしかるべきだと思う。少なくとも銃がなければ、今回の事件だって、被害は10分の1程度におさまっていたのではないか。

ナイフだって危ない凶器だが、逃げる/抵抗する相手の血の通った肉を突き通して致命傷を与えるには、相当の覚悟と力が必要だ。

人差し指のスナップと腕にくる反動だけで相手を殺せる“お手軽な”銃とは訳が違う。

それに、自分の愛する人が撃ち殺されるのはもってのほかだが、自分の愛する人が、周りの人に銃を向ける加害者にならないなどとどうして言い切れるだろう。そう思うととても恐ろしいのだ。

人は誰でも、狂気を飼いならしてオトナになっていく。それでも、むしゃくしゃすることだってあるし、精神的に安定しない時だってあるし、何かに攻撃したくなるときだってあるだろう。

そんなときに銃が手元にあったら?

「銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ」

とは銃規制に反対する保守派の言葉だが、では銃はなんのために発明されたのか。人が人を殺すためではないのか。

今回の事件を受けて保守派と呼ばれるみなさまはこう言った。

「学長も銃を持っていたら殺されずにすんだし、被害も食い止めることが出来た。」

バカいうんでない。

子供たちが目の前でバタバタ撃ち殺されているのだ。ろくに訓練もされていない者が、年末行事の発表物の会議かなにかをしている最中に、すぐさま状況を的確に判断し、銃を手に取り、ターゲットを射止めることなど不可能に近いんじゃないか。

打ったそのタマが子供たちに当たってしまったら?

迷ったり恐れている間に自分が殺されたら?

そんな思いを一瞬で振り払って冷静になり、犯人にタマを命中させるなんて神がかった芸当ができるだろうか。

個人の判断をそんなに信用すべきではないと思う。誰だって間違いを犯すのだ。

その間違いを取り返しのつかないものにさせる銃を、我々は持っていてはいけない。

「再発の防止」を掲げると、教育とか社会構造とかもっと大きなところに行き着くだろう。しかし、まず一番に手を付けるべきところを素通りしてはいけない。

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